”選択→自分なりの成果”は自分への信頼につながる
一般的に選択することはとても大事だというけれど、なぜそういわれるのか。
今学校の先生をしていて思うが、高校生の中でも、私は誰が何と言おうとこれでいく!という進路にしている人もいれば、親からの強い意見で進路を決めている生徒もいる。
読んでいる皆さんも例えば美大に行くだか、映像関係にだか、一風変わった生徒なんかいなかっただろうか??
私が見ていて思うのは、そういった選択をする生徒に共通点があって、正直なところ勉強でよい成績をとっていない生徒でもある。そして素直な生徒だ。
生徒本人からしたら、自分の進路を決めるうえで、学力的にこれといった自信はないと受け入れて、自分にはこれしかないと感じている生徒。私から見るとその姿勢は、必死ともいえるし自分をしっかりと客観的にとらえていて、現実的な視点のあるイメージ、覚悟ともいえる。
そういう選択しか自分には残されていないから、その道で頑張るしかない。というような姿勢だ。必死に打ち込んでいる姿はかっこいいなとも思うし、そうした気持ちでしか極められないものもあると感じる。
ある意味、周りを気にしないようなマイペースな生徒、その生徒に話を聞いてみると、その兄弟や父親母親、ましては祖父母まで少し専門的な仕事をしていたり、家を長期開けて事業を起こしてみるなど、そういった自由な形をとっている。
むしろ、学力があることはいいばっかりではないのかもしれない。
学校ってある程度しっかり周りと足並みをそろえていれば、何となく大学にも入れる。でも、その先のことは保証もしないし、大学生になってレールがなくなる。
ある意味今まで学校で先生に求められることをしてさえいればカースト上位には入れて身は保証されていたが、大学生になってから、自分の選択の置き所がわからなくなるのだ。そういったギャップで、まじめだったと思っていた自分が、大学に通えなくなってしまったりする。それは学校だから線路から出れなかったけど、大学のように柵がなくなって自分で自由に進むとどうなっていたかというと遅かれ早かれそういう性質、願望をきっと持っていたのだと思う。だから気づいていないだけで、本人の性質というものは若いころから持ち合わせているものだと思う。それが顔を出せる環境が遅いのか早いのかだけなきもしてくる。早ければ自分で選択をするという機会が速くなるのだと思う。
先の話について深めると
目的もなく学力があることはいいばっかりではないのかもしれない。
と私は感じる。
実際私が高校生のころの話だ。私は小学生のころから調理に興味があった。だからそのつもりだったが、あまりに成績が良かったようで、教師という進路を進められ進学した。
実際私は結局教員免許を迷いながらとり、教員にまでなったしそれなりに楽しいが、結局来年から調理製菓の学校で学びなおしをすることに決めた。しまい込んでいたものは遅くとも必ず顔を出してきた状態だ。
教員になるという強い意志がないのは自分で感じていて、仕事に対して同僚に対して、失礼な気もしているし、自分ですべてやりたいことをやって天秤にかけたうえでやりたいことにしっかり熱意をもって取り組みたいと思うので、自分に素直な選択することそしてそうした内省的な成果を持ちに行きたいなと思っている。結局天秤にかけるものを今増やしてしまっている。結果的にはその中で選ばれたものがきっと私にとって価値がものすごくあるものになるんだろうなと思って、私は過去のことも受け止めているし、今からしっかり過去の分も含めて未来につなげていきたいと思っている。
怖いけれども親のススメでもなく誰のススメでもなく誰のせいにもできず、自分でしか責任のとれない状況で、自分で選択して、自分を知っていったり、状況を打開したりすることで、自分の選択や自分の胆力を信用することができて、自分の信頼度が上がっていく。これが、自立ということのような気もする。
誰の人生でもなくこの地球に生まれ落ちた一つの生命として、どう生きて死ぬのか、そうでなければ、自分が60代になったときあてにしていた人間は親は生きていないかもしれない。そうなったときに、自分で何とかできる力は自分だけの素直な選択をすることで培えるのかなと感じた。
愛させてもらえるということ
誰かを大事に想えることって、簡単にできるものじゃないのかもしれない。
大事にしたいって思える気持ちを持たせてくれることってすごいことで、
少なくとも一度人を信じられなくなった私のような人にとっては一途にそう思えることは簡単なことではありませんでした。
この世にある商品も商売も、(そうでないものもあるかもしれないけど)もともとは人に必要とされて、喜ぶ人がいて成り立ってできたもの。
商売の始まりは、人を想うことで始まったような気がする。
一人のこと、家族のこと、友達のこと、周りの人のこと、想うこと大事にすることで、そのほかの人を幸せにできるようなものが生まれる気がする。
例えば、家族に音楽を好きな人がいて、その人のために作った歌が、関係のない人たちにも届くきっかけがあって、一人のために作ったはずの曲がたくさんの人を幸せにすることにつながる、価値にもなるんじゃないかなって、想いました。
そういう風な景色を見せてくれた(きっかけをくれた)彼とその家族に私は感謝です。
そしてこの感覚とエネルギーを私の周りの人にも分け与えたいなって思います。
そんな活動が生き方ができればいいなと思います。
20代後半、種子に水を撒くように、背中向けが始まる合図
20代前半から今まで自分のことでしか精いっぱいだった自分を卒業し、周りへの感謝と関心が向いていくようになる。ある意味社会人になって、先輩たちに対する尊敬の形でもある。そして、そこから同時に自分が今の10代の先輩となり始める時期でもあると感じる。
今は教職についているわけだが、自分の人生その時は死んでしまいたいほど悩んだことが、まさに10代には励ますための力・材料となるのだ。
最近はそんなことが多くて、20代前半で何となく、自分より若い世代にも還元していきたいなと思っていたことが、実際に実績として自分の中に積みあがっていく感覚がある。
きっとこうなるタイミングは人それぞれなのだろうけど、これが孤独でなく、多くと関わりながら生きるメリットだなと感じた。
生きている意味は自分の中だけで出来上がるものでなく、視野を広げて周りの人々からも形作られ、それが後世に残り生き続けることが、死を受け入れる理由にもなるような気がした。だから私は残りおおよそ60年多くの種にたくさんの水をまき散らしていきたい。
動的で静的な愛情
27歳なんだか恋愛がうまくいかないな…と
私の中では何かしてあげるってことが愛情かなとも思ったりしたけど
何もしないことが時には愛情になるのかなって。最近思ったり。
何かしてもらうって、されすぎると、悪いなって思ってくるっていうか。
何もしないほうが、相手は居心地がいい時もあって。
これは私が何かしてあげすぎる立場と、何かされすぎる立場のさなかにいて今日感じたことです。
何が愛情なのかわからないけど、恋愛を考えれば考えるほど、わからなくなる。
好いて好いて好いてもらうこともあれば、
好きで好きでしょうがないこともある
今私はその”はざま”にいて、自分が他人に向けるものと向けられているものは同じようなのに、受けとってほしい自分と受け取れない自分がいて、加害者と被害者両方やっているような感覚になる。
もっとささやかなものでいいんだろうけど、これって不器用なだけなのか、遠距離しかやったことないからこんな風に分量を間違えてしまうのか。
”自然な自分”は自分しか受け止めてもらえないんじゃないかって思っているのかもしれない。でも、その自分を隠すことで、より事態を窮屈なものにしてしまっているのだろうなと。そんな風に自分の周りしか考えられないようだから、立ち振る舞いがわからなくなるのか。
簡単には相手のために”動的でもあり静的でもある”ような真心をもっていさえすればいいのかもしれない。
またまた一年ぶりに恋愛シャットダウンの時期になるのかもしれない。
こうして、こじらせがいつまでもなおらないまま、だれかお助けを…

恋愛の難しさというより、愚痴かもしれない。
ついこの間別れることとなってしまった男の心理について疑問がある。
彼はもともと余裕のない人で学生と社会人(私)との恋愛であった。
最初は猛アプローチされて何となく付き合ったが、その時点で私はこの恋愛は今いらないと考えていた。
自分のやりたいこともあるし、将来もわからないし安定しない中でこの関係を続けいていく未来すらイメージもなかった。
別に彼でなくてもいいと思う自分がいて、まだほかの男の人と連絡を取るなど、中途半端なことをしていた。彼にそれが知れたとき、残念そうにはしていた。
私は彼との未来に不安があり、全ベットしたくないと考えた末逃げ道を用意しておいたのだ。
だが彼は大丈夫だといった。だから不安がらないでくれと。
なので、私は彼と真剣に付き合うこととした。彼しかいない。彼とちゃんと未来を考えていくんだと。
でもそうすると男性は窮屈さとプレッシャーを感じるようになるのですか?
そちらが自分だけを見てくれといったくせに、いざ向いたら見すぎだと。重いと。君には付き合ってられないから、別れてくれと。
その彼に器がないだけでこのようになったのか、以前の私のほうが気楽でそれまでの自分と変わらなくよかったのに、彼に合わせた途端これじゃないなんて、おかしいと思いませんか。
なんだかどんな男性にも当てはまるような気がして、内心、別にあなたなんて私の人生に必要でないって思ってたほうがいいんでしょうか?そんなのこっちからしてみれば本当に必要ないんです。いてもいなくてもいい、むしろ煩わしい。その人のことも気にかけないといけないんだから。
男運が悪いのか私の考え方が極端なのか私の全ベットがベットしすぎだったのか、わかりませんが、もうこんな思いはしたくありませんね。
亡くなったはず猫が私を出迎えてくれた日
皆さんお久しぶりです。
少し前にブログの書き方などの勉強をしたので、それにのっとり文を書こうと思ったのですが、今日は今にも消えてしまいそうなこの想いや気づきを残すために、ぐちゃぐちゃに書きます。
この日私は夜遅く家に帰ると、門のところにとってもお行儀よく猫が立っていました。よく見ると数年前に亡くなって、庭に埋葬した、前飼いネコにそっくりな子でした。
名前は呼んでももちろん反応しませんが、車に乗っている私のほうをじっとり見ていました。そして近寄ると逃げて暗闇に消えてしまいました。
この付近では見かけない柄の猫だったので、今日はなにか特別な日なんだなと確信しました!!
というのも!
私は家庭教師を数カ月前からしているのですが、継続していかせていただいているお宅が3件あります。その一軒、記念すべき私の家庭教師人生を開いてくださった功刀さんのお宅に今日は運命かと思うほどの恩を感じました。
私は去年7月末に仕事を辞め1年たちます。
最初の半年間も今までもずっと内心は不安があったり、自分は何をしたいんだろうと自分一人で考えていて自分に毎日問いかけ続けていました。
私は基本何でも器用にやってしまうタイプなので、途方に暮れていました。
これだ!!!というものが欲しかったのです。
家族にも厳しく言われることがあったり、親戚に意見をもらったり、いろいろな人から意見をもらったり、自分の中では一意見と考えて、自分のペース絶対に崩さないようにと毎日毎日考えてきました。
いままで、進路を決めるとき周りの方のもったいないとかの声や、好きだった人や、恋愛など、ほかの人間関係などに引っ張られて、自分のペースを保てなかったところがあります。
こんなフリーターしているような私、せめても接する人に笑顔で絶対に心配かけちゃいけないなって思ってやってきました。
自分の不安もちゃんと自分で振り払って、かなりきついです。きつかったです。
おかげで精神的自立につながっているような気もします。人生の目標の一つにより真の通った精神的自立した女性になっていくか、というものができました。
死ぬまでの目標です。
苦しかったし、本当に不安でした。自分でも気づかないように絶対にそのことで泣かないようにしていましが、今日泣いてしまいました。
話がやっとここで戻ります。
いつも通り家庭教師に行って、生徒さんは夏休みなこともあって、ここ最近1カ月は少し勉強が億劫になっていました。彼自身中学では不登校で、もともと勉強は得意ではなく、でも今も頑張っています。私が行く前にしっかり宿題も終わらせて、私がやりたかったテスト直しをすることができました。彼はやる気は出ないけど、私が頑張れとかいうと頑張ってしてくれます。たまにスマホいじりますが。
終わるころにはありがとうございますといって去っていきます。
お母様と終ったあといつも学習状況を話すのですが、いつもにこにこと、息子さんのことを心配する表情もしながら見守るような顔で、話をしてくれます。期待と心配が混じったような話を。いつも通りありがとうございます。と言われて帰りました。
もしかしたら、私の優しい笑顔に・のほほんとしたおっとりとした雰囲気に安心してその顔を見せてくださったのかなとか自意識も少し感じました(笑)生徒さんに好かれているのも、その雰囲気が意識しなくても自然と生かされているのかなと。
毎回冷えたお茶を一本用意しておいてくださって、私も毎回ありがとうございます。と返し、玄関顔が見えなくなるまで見送ってくださいます。帰りながら、お母様からの感謝をすごく感じて泣いてしまいました。とても幸せだったのです。
そこで私は、私が先生という立場が好きな理由や人に教えることが好きな理由、
そして、昔から元気のない子や浮いてしまっている子、
闇を抱えていそうな子に声をかけに行っていた行動、
なぜか友達と会うといつも笑いの爆弾係みたいになったり、
楽しく過ごせるのも一緒にいる人が私といて楽しんでくれるのも、
そして昔ずっと好きでいた人、今の好きな人、似たようななぜかそれに自然と惹かれてしまう理由が
パーッっと開けるように一つに終着しているようで、それがわかったのです。
私は感謝されるのがすごく好きだから必要以上に人に尽くそうとするし、喜んで笑顔になってもらうことが好きで、笑ってない人を笑わせたいくて、
お菓子を作ることが好きで、機械に向かう仕事は好きじゃなくて、
人の顔色伺ってブルーになることはあるけど、やっぱり対人の要素がないと私の幸せ度合いが上がっていかないというかその方法をとれば私は幸せを感じ続けれるのだろうなということに気づきました。
ある意味人を笑顔にしたいという呪いのような感覚でもあります。
家庭教師は転職だったのかもしれません。人の可能性を広げることも私は大好きなんだなということに最近気づいたので、これからは、それ越しの笑顔だったり感謝のために生きていきたいというか、それが私の人生終えるまでの道しるべな気もします。やっぱし単純な言葉って、しっくりきますね。
きっと、地味なもの着実なものでなく、追加的に人を喜ばせたりエンターテイメント的なものが私の性にはあっているようです。人によればこれは地味なのかもしれません(笑)
(今日は、気が合って、仲の良い、私とそっくりな姉ともカフェに行ったのですが、
私が神戸に行く用事があるのですが、
姉は例えば神戸に用事があるけど一緒に行く?って現実性もないのに80歳祖母を誘うんだろうなと思って、
私は考えて一緒に行動する時間あるかなとか。でも姉はきっとそうするだろうな。
家族がみんなで少しでも楽しむことや一緒のことをすること楽しんだり。周りの人に対してもきっと回りくどいこと考えず考えれなく(笑)そうするのかなと、姉は仕事で疲れていてもみんなの声聞いてあげてるし、ほんとにあったかい人だなと父方の母の遺伝かななんて感じながら、あったかさを感じました。私もきっとその気が少しはあったのでしょう。あってホッとするような人にもなりたいです。)
やはり、サポートする仕事したいです。そこにばかりに依存はしたくないので、物を作るという自己満的な要素も追加して。
なんとなく道しるべが見えてきたので、今迷っているアルバイトや来年学校へ行ったあとの進路など、より人とかかわれるような仕事いいなと思います。
そして今私の中でキテいる人、彼は美容師志望です。きっと彼も気づいてはいませんが、私と同じようなそんな単純な理由で色々なものと引き換えにその道を選んだのかもしれません。私は、彼のその単純さと鈍感さと無鉄砲さに魅了されたのかもしれません。彼の夢を、私は私ごとのように応援します。というか、そこに矢印が向いているなら応援せざる負えません。元カレと違うところはそういったところだったのでしょうか。(笑)←ちょっときついですかね(笑)
美容師さんってやっぱりお客さんからありがとうと毎日絶対に言われますよね?それって本当に素敵なことだし、大変だとは思いますが、素敵な職業な気がします。私の通っている美容室の店長さんもとっても素敵な方です。
頭を使うような難しい職業は、スケールが大きいですし、年収もいいですが、イメージ的には、年収も低いような俗な仕事のほうがスケール小さいですがそういった感謝や感動を直に見ることができるような気もします。
私は頭は使えるようですが、いったん置いといて、いつかの時に使えればうれしいです。
前の仕事辞めてよかったし、今まで地道に苦しんで精神的に耐えてきたのもよかったし、接客業が好きと言っていた前職の店長に会いたくなりました。
出会った皆さんに感謝です。
果たして最後まで読み切ってくださった方はいるのでしょうか?(笑)
6/28 人生のスケッチ sketch

お久しぶりです。長らくそこらを流動していましたイチゴ牛乳です。
忙しくしていると、自問の時間が無くなりますね…
突然ですが、幾田りらさん(YOASOBI)の"Answer"って曲をご存じですか?
そのアルバム名が"Sketch"なんです。今回の記事のタイトルです。今聞いてます。
この曲の最初の1節
「このまま、どこまで、歩いていくんだろ、鏡に映る自分を見つめて」
のセンスが良すぎてこの歌詞を書いた方はどんな気持ちで書いたのかと思いふけらされます。私もそんな気持ちです。自分という存在が自分なようで鏡の中の自分なようで。実在するようで、しないようで。
やっと久々にこのブログを書いたのも、いつも応援してくれている方のお声がけです。
すでに自分の心をアウトプットすることで、私の中の抱えきれなくなり溢れそうだった悶々としたものが、少し浄化されます。背中を押してもらってありがたいです。
私だけなのか、人はなのか、やはり人と比べてしまうところがありますよね。
特に最近の私でいうと、仕事をフルタイムで淡々としている方。わたしにとってはすごいなと思う方々で、何故(なにゆえ)それほどになれるのか知りたくなるんです。
私がその人たちと同じ感覚を手に入れれば普通に働けるのかなと。
はたや、脇目も振らず夢を追いかけている人もいますよね。私はかっこいいなと思いつつ、崩壊の不安を感じるときがあります。
こうして、人と比較して参考にしつつ自分の立ち位置を確認しようとするのですが、
誰と重ねることもできず、
結局私は一筋縄ではいかないようなポリシーと頑固さを持っていて、
自分の中でしかきっと答えを出すことができないのだろうと思っています。
少し寂しいです。
未来の可能性は無限大であってスケッチブックのように何を書き始めることもできるし、最終的にぐちゃぐちゃな状態もできるし、計画されたきれいな状態にすることもできる。(私は今のところ前者でしょう…
私は最近、仕事・志を定められない理由を可能性を削ぎたくないからという綺麗ごとのような理由で、片付けようとします。これは本心で、自分はどうにでもなれちゃうと思っています。どれかを選ぶことで、ある意味可能性は狭まるんです。でも選択して進まない限り得られるものも少ないんです。
だからこそ、社会で役に立てる術は五万と転がっていて、皆さんはそれを感じたうえで道を絞って仕事をされているのか、このことを悩む時点で、私は特殊なのか、特別な対処が必要なのかそれが最近は特に気になります。(この言葉にはこの苦しみから解放される術が、他人にあると思いたいという心理が隠されています。
誰か私をいいように納得させて-!!っていう状態です。この思考に諦めがつくならいいんです。諦めがつく術があるなら。普通に働きたいんです。でも、諦めがつかないんです…
「減ってく時間増えてく荷物、孤独が僕を育てていく」
時間は今確実に進んで焦りを感じますよね。あと2倍ちょっと生きれないし、この体力がいつまでも続くわけではないです。荷物というのは人生これまで人からもらった想いや労力、そして自分が今まで経験してきたこと培ってきたもの。これからもっと増えていくもの。それに対して、唖然とするんですよね。処理し切れない。と…
未来を考えることは、人と話したり、忙しくしていることで、ごまかせはしますが、結局のところは自分(孤独)と向き合うことで自分の歩みたいと思う方向が見えてきますよね。向き合わなくても生きてはいけます。でも私は考えてしまいます、面倒くさくて辛いですけど。もっと向き合えることは私もそれはわかっているんです。
もう少し自分と向き合ってみようと思います。
私の人生の筆を握っているのはきっと私だけなので、書いたものと書いたもの結び付けたり、新しく書いたり、たまには一人寂しく満足げに見渡したりしてみたり、したいですね。なんだかりらさんが歌っているから孤独ではない気もしてきます。歌ってすごいですね。
ラスサビ
「このまま、どこまで、歩いていくんだろう、鏡に映る自分が頷く
未完成なままでいい、足りない欠片探して、日々をまた紡いでいく」